すべてこの世はひとつのリング

アメリカのプロレス、WWEが好きだ。

台本のストーリーはバカっぽいし、エフェクトもお金がかかってて派手で、これぞアメリカのエンタメの集大成である。

それに男女の揉め事も、会社の内部分裂も、宗教対立も何でもかんでも最後はプロレスのリングで決着をつけようとするところが非常に良い。

ミニ四駆や中華料理で世界の覇者を目指す、少年漫画のごとき勢いがある。

 

悪のレスラーにひき逃げされたので、白黒つけるためリングで勝負!とか。日曜朝の子供向け番組で、悪の組織が国家転覆の手始めに近所の幼稚園を襲うような、「なんかもっと他にやりようあるやん。」と言わずにはおられない事態である。

観ているときは勢いに飲まれて納得するのだが、後から冷静に考えれば非常に馬鹿馬鹿しい。

 

以前、聖ヨセフという聖人について調べたことがある。

キリストの養父で、聖母マリアの夫である。嫁になんもしてないのに、気づいたら子供ができてた可哀想な人だ。

その聖ヨセフであるが、聖母マリアと結婚した時にはかなりの高齢であったと聖書に書かれている。

そのため、聖母マリアと結婚する前に一度結婚していたとか、キリストが生まれた後、聖母マリアとの間に子供ができたとか言う説がある。

聖ヨセフはキリストの養父になれるほど素晴らしい人、つまり良きユダヤ教徒であるのに、ユダヤ教の義務である結婚をせず、ずっと独身だったのはおかしい、というのだ。しかし一方で、聖ヨセフはマリアの夫ポジションで有名になった人なのに、なんか別の女の人とモチャモチャやってたら嫌じゃない?みたいな意見もあった。

またマリアとの間の子供にしても、普通にその時代の夫婦だったら子供作るよね?というある意味真っ当な解釈がなされた結果であるのだが、聖母マリアの処女性をことのほか重要視するカトリックでは、「キリストが生まれた後もマリアとヨセフはなんもせんかった。だってマリアはずっと処女やもん。」という考えが主流となる。

そのために何年もの間、教会の偉い人たちは、聖ヨセフは童貞だったのか、なんでずっと童貞だったのか、童貞でも尊いのか、童貞だから尊いのか、童貞であることはどう解釈すべきか、という議論を延々と行ったのである。

1000年以上前に死んだおっさんの性事情を、その時代の知識の集大成みたいな人達が集まって、ああでもないこうでもないと話し合ったのだ。

誰かちょっとでも我に返らなかったのだろうか。

 

先日、大学の講義で、現在プラド美術館に展示されている2体の彫刻「アダムとイブ、もしくはパンドラとエピメテウス」がエル・グレコの作とされているが、実際にはそうではないと思う、というような話があった。

その最大の理由として、「エル・グレコは人体のプロポーションに一家言持っており、またそれに非常に気を配った画家であったのに、こんな垂れた尻の彫刻を作るか。」ということだったのだが、3時間の講義の間ずっと我々は、プロジェクターに大写しになった彫刻の尻を眺め、偉い教授はひたすら垂れた尻の話をしたのである。

 

人生ってのは、側から見ると死ぬほど馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。